2013年1月19日土曜日

四国お遍路は「自由」

色々な四国遍路の本を読んで、なるほどと感心した本がある。

五来 重 著 の「四国遍路の寺」




分かった事としては
  • 霊山寺が一番札所になった訳は、昔(江戸時代など)は淡路島経由で鳴門に渡るのが一般的で、その場合の最短ルートに位置する寺だから。
  • 大昔の札所と現在の札所とは、場所が違うことがある。(大抵は奥の院が昔の札所)
  • 四国別格20霊場は、その歴史が浅い(設立は1966年頃?)
  • 88箇所の札所(霊場)の中には、その起源が曖昧なお寺もある。
  • 空海が立ち寄ったお寺が88箇所に選ばれている訳では無い。88箇所を決めるときに政治的な力で割り込んできた別当寺もある。
などがある。これにより、私の持っていた「四国お遍路」のイメージは大きく変わってしまったのである。

一般に言われている様に、どの番号の札所から始めても良いし、どこで結願しても良いのである。「四国お遍路」に面倒な制約は無い、皆それぞれ自由に回れば良いと思う。

ただ、こういった事を知ってしまうと「錦の納札」なんて「何ぼのモンジャイ」と思ってしまう。何度も回らせようという強欲な僧侶達の陰謀ではないか! 立派な僧侶も居られると思うが、生臭坊主も存在しているのは確かだ。

五来重博士は本書の中(P104)で「別当寺」に対して辛辣な事を書いている。
「こういうお寺は、幸いなことに八十八の集印をする人があって、計画的に参らないといつまでも抜けたままだというので参ることになる。それによって生き長らえているという感じです。これが巡礼というものの姿です。」

南無大師遍照金剛。

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